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映画「聲の形」と私

以下に書くことは極めて私的な感想であり、誰かに読まれることを想定していません。

共感してもらうことはおそらく難しいと思うし、そもそもたぶんおれにしか分からない感覚を書いていると思う。

ただおれは、この映画について感じたことを文章に残さなければならないと感じた。
心をぶん殴られるような衝撃をここまで受けるとは思ってもみなかったから。
自分の人生そのものを問われている気がした。

お読みになる方は、非常に衝動的に書いているので支離滅裂な部分が少なからずあること、またネタバレを含んでいることをご承知置きください。


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おれは9月29日に映画『聲の形』を観た。
原作漫画は読んでおらず、事前インプット一切なしの状態で(なんか話題だし観てみよっかな)という軽い気持ちで観に行った。


映画が終わり劇場が明るくなったあと、誇張抜きでしばらく席を立てなかった。
涙が止まらなかった。すごい。一体なんだこれは? あまりに強烈すぎる。エグすぎる。重すぎる。
描かれているのはおれの人生そのものだった。

映画を観て、これほどダイレクトに感情移入した作品は過去他にない。
まさか30歳を過ぎて、こんなに打ちひしがれる感覚を味わうとは思ってもみなかった。


おれが感情移入したのは石田将也ではなく、聴覚障害を持つ西宮硝子。
そしてこの映画は「覚悟」の話だった。

葛藤と覚悟をここまでリアルに表現した作品はそうそうない。
明確に説明されない部分の描写力がひたすらすさまじい。

特殊学級ではなく普通学級の一員として皆と生活すること、その中で自分がいかに振る舞うべきか、弱者として扱われる「壁」を取り払うために悩み・悲しみ・恐怖・怒り・苦しみを極力表に出さない…etc.

そういった「小学生の西宮硝子」の葛藤が、「常に笑顔でいること」の描写から痛いほど伝わってくる。そしてその、自己防衛と他者への配慮からくる行動が、自分の意志とは真逆にはたらきさらなる隔たりを作ってしまうことの苦悩も。

「高校生の西宮硝子」も、目を背けたくなるほどリアルだった。
自分の試みは単なる独りよがりなのではないか?他者とのコミュニケーションとは?周囲の幸せとは?に答えが出せないまま、ただ「ごめんなさい」を繰り返すしかアウトプットできない様子を見るのは本当につらかった。本当に。

中盤以降の硝子の場面場面で変わる髪型、あれは「覚悟」の試行錯誤だ。
単純にポニーテールにしたのではなく、補聴器という自分の弱さを他者にさらけ出すという硝子本人にしかわからないチャレンジであり、補聴器が見えているか見えていないかという細かい描写に硝子の感情がつぶさに表れている。補聴器の色が前半と中盤以降で違うのもそのへんを意識したものだし、終盤の学祭のシーンでポニーテールをやめているのは、ひとまずは「覚悟」を構える必要はないという、西宮硝子にとってのささやかな「前進」の表れである。

この映画の西宮硝子の描写はどう考えても、実際に体験していないと描けない類のものだ。


でもそのあたりがピンとこない鑑賞者もおそらくたくさんいると思う。
なぜならこれは登場人物の中の「誰の」視点に立って観るかによって感じ方が異なる類の映画だし、またその感じ方は個々人のこれまでの人生経験に大きく依存していると思うからだ。

でもおれには西宮硝子の葛藤と覚悟が、ぜんぶ理解できてしまった。
細かい描写の一つ一つに心から共感できてしまった。
西宮硝子の生き方はおれの生き方とまったく同じだったから。

西宮硝子はおれそのものだった。



たとえばこの映画を「感動ポルノ」や「贖罪」と評する人について、感じ方は上記の通り個々人の感覚に拠るのでそこにイチャモンをつけるつもりはないが、西宮硝子の視点で観たおれにとっては「感動ポルノ」や「贖罪」といったことばは絶対に出てこない。

これは何かを解決したり許したりして終わっている映画ではないからだ。「前進」はあれど、「解決」はない。ハッピーエンドのように見えてまったくそうではないのだ。「隔たり」は依然としてそこにあるのだから。そうである以上、「感動ポルノ」という感想には決して至らない。そしてこの「隔たり」が依然として存在し、かつこれからも存在し続けるという点が重要だと思う。それが現実の姿だし、ゆえに西宮硝子の「覚悟」が大きな意味を持つ。様々な思いをはらんだ「覚悟」に至る葛藤が痛々しくリアルだからこそ、あのラストシーンで素晴らしい音響効果とともに「開放」される感覚は、将也だけでなく硝子の合わせ鏡として、何物にも代えがたい震えをもたらす。


「贖罪」についてはおそらく石田将也の視点に立った人から議論されるワードだと思う。でもおれは「贖罪」自体がここでは成立しないと思っている。
贖罪とは、罪を許されたいと考える人間、そして相手の罪を許す人間の両者がいて成立するものだ。だが西宮硝子は「相手の罪を許す人間」の立場には絶対に立たない人物である。そもそも「相手に罪がある」という発想すら、彼女にはない。何事に対しても「すべては自分が悪い」と背負ってしまう人間だ。バカにされ、いじめられ、非難されたときに「なんだとこのやろう!」といった感情は出してはならない、なぜならそうすることでまた壁ができてしまうから……と悲痛なまでに自己制御してしまう人間である。
ゆえに彼女から出てくる言葉は「私は、私が嫌いです」であり「私といると不幸になる」なのだ。植野直花の「あんたのせいですべてが崩れた」をそのまま受け取ってしまうのが西宮硝子である。そういう人間に対して「贖罪」は決して成立しない。


ここまで書いていて非常につらいが、映画を観ている間も硝子の苦しさ・痛々しさが生々しすぎて何度も目を背けたくなった。おれにとっては本当に、自分自身の生き様を見せられているような感覚なのだ。



10月16日、この映画を再度鑑賞した。

再度打ちのめされることが容易に想像できたので観に行くかどうか迷ったが、同時にもう一度観なければならないという感情もあったので意を決して足を運んだ。

そして案の定泣いた。
一回目鑑賞時には気がつかなった伏線や細かい描写を読み取ってしまい、より一層感情移入してしまった。


映画が終わったあと、「西宮硝子はおれそのもの」という感覚が少し間違っていることに気づいた。


西宮硝子は「おれ以上に」おれそのものだった。


なぜおれはここまで衝撃を受け、ここまで感情移入し、ここまで痛みを感じ取れるのか?


西宮硝子は、おれが「あの場所へ行きたいけど、そこまでする勇気はない」と日和ってしまうような高みへ果敢に挑戦をする。そして失敗する。
おれが「しくじったらあそこまで落ちてしまう。そのつらさは嫌だ」と想像し、チャレンジをしない言い訳にしていたような場所へ、西宮硝子は落ちていく。
それを何度も繰り返す。繰り返して傷を負っていく。

おれから見る西宮硝子はギリシャ神話のイカロスのようなものだ。

目指す方向は同じだが、おれが「あそこまで翔ぶと翼が太陽に焼かれてしまう」と躊躇する高みまで、彼女は翔んでいく。そして翼を焼かれ、おれよりも下へ墜落していく。

翔ぶ動機が「過信」ではなく「覚悟」という点がイカロスとは決定的に違ってはいるものの、おれと同じ放物線上にいながらも、おれよりもはるかに大きな痛みを経験しはるかに大きなものを獲得する存在。彼女はまさにそれだった。


だから「おれ以上に」おれそのものなのだ。


エミリー・ブロンテの著作『嵐が丘』で、キャサリンはヒースクリフの存在についてこう語る。

I am Heathcliff!
私はヒースクリフなの

構図は違えどおれが西宮硝子の存在に対して感じるものは、『嵐が丘』でのキャサリンの感情と完璧にダブる。

まさに自分自身を観ているような感覚。



この映画を観て以降、ずっとある思いに囚われている。


おれは今まで、何に挑戦しながら生きてきたのか?
そしてこれから何を価値観の拠り所として生きるのか?
おれは何と闘ってきたのだろうか?
それ以前に何かと本気で闘ったことがあるのか?


おれが生きている意味はあるのか?




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2017/01/27 (Fri) 20:04 | # | | 編集

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